たけまさの歩み 衆議院議員第1期

2000年6月
衆議院議員初当選
埼玉県第1区(旧浦和市・蕨市)選挙区より105,783票の支援を頂き衆議院議員初当選。6月分の歳費のうち当選時からの5日分を除き残り110万円を国に返還することを発議し、 この件に関する法案を準備。返還予定の歳費を銀行に預けている。
この発議は「夕刊フジ」「週刊現代’02年3月11日大橋巨泉『内遊外歓』」でとりあげられた。民主党1年生議員43名で「いっきの会」を結成、世話人に。この間60回の例会を開催。
衆議院議員会館の部屋は第2議員会館312号室、宿舎は赤坂宿舎。
2000年8月
委員会で初の質問
所属委員会は逓信委員会。
内容は「ADSLの規制緩和と日本のITを担う人材育成」について。
これを皮切りに一期目で計55回の国会質問を行った。
2000年9月
中国訪問
松下政経塾出身国会議員の会「未来政治研究会」にて中国を訪問。
朱鎔基首相(当時)と二時間の意見交換を行う一方、 中国側と日本の安全保障を巡り激論を交わす。
’01年12月には同じく2時間半の激論を朱首相と行う。
2000年11月
水かけ事件
「加藤の乱」と呼ばれた内閣不信任案採決の夜、松浪議員の水かけ事件が起こる。演壇真正面2列目の武正は真っ先に立ち上がり議長に抗議を行った。
2001年6月
代表質問
初の衆議院代表質問を本会議場で行う。
テレビで見るよりも狭い本会議場で約15分「地方自治法改正」について。 住民訴訟の二段階化等の問題点を指摘する。
答弁は官房長官、財務大臣、総務大臣、経済財政担当大臣の4人。
‘03年2月18日にも二回目の代表質問を「地方交付税法改正」等について行う。
2001年6月
初の議員立法提出
当選一年目に初の議員立法として「医療事故防止法案」を衆議院に提出。記者会見も行う。この間、11本の 議員立法を提出。
2001年8月
民主党両院議員総会
参議院選挙の苦戦を受けて武正からは真っ先に「自民党だけでなく民主党にもいる族議員と対峙しなければ国民の支持は得られない」と発言。11月には大分サッカースタジアムで「日韓国会議員サッカー大会」に参加。これまで日本の1勝2敗のため、何とか勝ってタイにしたかったが2-3と惜敗。リベンジを誓う。
2002年8月
民主党沖縄ビジョン
第154回通常国会が開会。沖縄北方特別委員会の理事に。 民主党沖縄担当としてこの年6回訪問。8月25日には沖縄問題解決のための「民主党沖縄ビジョン」を那覇市で発表。党大会では総務局次長として司会を務める。 「小泉政権と対峙する」というスローガン採択。
2002年8月
ロシア訪問
初のロシア訪問。 安全保障研究会とサハリン州の共催の「サハリンフォーラム」に日本の国会議員としてはただ一人参加。 作家の上坂冬子さんらとロシア側と北方四島返還について意見交換を行う。
2003年1月
総務委員会理事に就任
第156回通常国会が開会。総務委員会理事に。総務委員会は行政改革のこと、地方自治体のこと、 人事院勧告のこと、通信・放送のこと、消防のことなど幅広い担当分野を持つ重要委員会の一つ。又、野田佳彦国会対策委員長のもと国対副委員長に。
国会対策は衆議院・参議院全体の進行状況が居ながらにして手にとるように見られる立場。
2003年2月
民主党党改革プロジェクト
半年間、岡田幹事長のもとで党改革プロジェクトチーム事務局長を務める。政権政党たるための改革を実行に移す。
2003年5月
有事法案
修正して成立。初当選してすぐに緊急事態法制プロジェクトチームの中心メンバーとして 政府案への対案づくりにつとめてきた成果が実る。
2003年7月
民主党・自由党の合併
9月末合併が発表される。2年にわたり合併に向けての窓口をつとめてきた武正にとっても感慨深い。
2003年10月
衆議院解散
本会議では同意人事が済み、紫のふくさが現れ、議長から憲法第7条の天皇の国事行為としての解散が報告される。議場にはパンザイの声。武正は1回目はバンザイ、2回目はガンバルゾー、3回目はまた帰ってくるゾー、と叫ぶ。